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【前編】母から娘へ 伝統をつなぐ ~横手市田ノ植のカシマ行事

投稿者:宮原 葉月 投稿者:宮原 葉月 宮原 葉月

 毎年夏に横手市平鹿町で行われる「田ノ植(たのうえ)のカシマ行事」。
 大きなカシマサマと小さなカシマサマが作られ、村境に祀られます。大小のカシマサマは祀られてから1週間ほどで燃やされるので、なかなかお目にかかることができません。昔は小さな鹿島人形を、「悪いものを退治してきてください」と祈りながら川に流していたそうです。

【前編】:田ノ植のこと・秋田の近代史に寄り道 ← 今回
【中編】:カシマ行事と柴田さんの家族史
【後編】:社会科研究発表のこと、母から娘へ伝統をつなぐ

▼目次
・田ノ植から届いた一通のメール
・田ノ植集落について
・柴田浅五郎と自由民権運動について
・おまけ ~阿気村強盗事件と天皇の巡幸

 2019年、ANPは田ノ植集落のカシマ行事を初めて取材させていただきました。(2021年の取材の様子はこちら)当時は集落の広場に20数名ほどの地元の方々が集まり、大人たちは1体の大人形を、子どもたちはご両親や年配の方と一緒に小さな鹿島人形をつくられていました。


田ノ植から届いた一通のメール

 小さなカシマサマづくりは子ども会で行われ、年配の方の教えを受けながら、若いご両親が子どもたちと一緒に鹿島人形を作ります。熱気あるその様子から「田ノ植における伝統継承は当面安泰だろう」と取材時は感じましたが、この後に起きた新型コロナの感染拡大によって、従来のやり方が縮小されることになりました。

 昨年の2022年8月、「2021年以降、奉納された鹿島人形(小さなカシマサマ)は我が家で作った2体だけとなり、随分寂しくなってしまいました。カシマ行事のことを多くの方に知っていただこうと、娘と一緒にカシマ行事について調べ、社会科研究の発表会で発表しようと思います」と、田ノ植にお住まいの一人の女性の方からのメールが届きました。

 女性のお名前は柴田 香織さん。田ノ植のご出身で、現在小学5年生の女の子と幼稚園年長の男の子を育てていらっしゃるお母さまです。

 田ノ植のカシマ行事が、まさかそのような状況になるなんて。驚いた私は早速柴田さんに連絡を取り、状況を詳しく教えていただきました。

 秋田と大阪間を何十通もの往復電子書簡を通じ、柴田さんの行事に対する思いや、お嬢さんが社会科研究の発表を通じて成長されていく様子に感銘を受けた私は、「お嬢さんの発表について、ANPのブログ記事でご紹介させていただけないか」と相談してみました。すると、大変有難いことにご快諾いただけましたので、前編・中編・後編にわけてご紹介させていただきます。


田ノ植」集落について

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【中編】:カシマ行事と柴田さんの家族史
【後編】:社会科研究発表のこと、母から娘へ伝統をつなぐ

 ところで、「田ノ植」集落は一体どんな場所なのでしょうか。

 秋田県の南部、横手市平鹿町上・中吉田に位置します。田ノ植がある平鹿町は、小さな町村の合併が繰り返され誕生しました。『平鹿町史』(秋田県平鹿町・昭和59年)によると、明治22年の町村制施行に伴い上吉田郷、中吉田郷、そして下吉田郷とが合併し吉田村が誕生。昭和31年に浅舞町と合併し平鹿町となりました。ちなみに昭和30年代の平鹿町は、ほぼ全ての収入を農業で賄う「純農村地帯」だったそうです。

 現在も住宅街を抜けると田園風景が広がります。カシマ行事が行われる夏に訪れると、青々とした稲穂が波打つ様子がとても美しい場所です。

 「田ノ植」に関する書籍がないか雄物川図書館(秋田県横手市)に問い合わせてみました。すると、司書のYさんから近くに吉田城跡(ご参考:横手市のサイト)があること、秋田の自由民権運動の立役者・柴田浅五郎の生まれ故郷であることを教えていただきました。折角ですので、柴田浅五郎と自由民権運動についてご紹介いたします。

柴田浅五郎について

 秋田の自由民権運動の立役者である柴田浅五郎は、1851年(嘉永4年)に平鹿郡中吉田村田ノ植に生まれました。青年期に明治維新を迎え、新政府による徴兵令や不換紙幣の濫発によるインフレによる物価の高騰や貨幣価値の下落(※1)などに苦しむ農民の窮状を目の当たりにし、自由民権運動に関わるようになりました。

 自由民権運動について、簡単ではありますが下記にまとめてみました。

 幕府を倒した明治新政府は、薩摩藩出身の大久保利通や長州藩出身の伊藤博文らが中心となり、欧米列強の軍事力に追いつこうと専制的な政治を行っていました(藩閥政治)。それに対し、板垣退助らが「専制政治ではなく、多くの国民が政治に参加できることを目指そう」「憲法制定や国会開設を」「地租の軽減、地方自治などの実現を」などを目指した政治運動を起こしていきます。

 明治政府による徴兵制等で苦しむ農民の姿を目の当たりにした浅五郎は、仙台や東京、大阪や高知へ赴き自由民権の運動家と交流しながら運動に関わりました。1880年、29歳の浅五郎は秋田立志会を発足。秋田県内外で精力的に国会開設の運動を行いました。

 ところが1884年、秋田立志会事件(醍醐村殺害事件と阿気(あげ)村強盗事件)の実行犯として、また内乱を計画していた容疑で逮捕されてしまいます。

 この事件は現在見直されており、『夜明けの謀略』の著者・長沼 宗次氏によると、同事件は捏造されたもので、浅五郎が結成した秋田立志会を弾圧するためだったとしています。(※2)

「すべてが当時の藩閥政府と官憲が仕組んだ謀略と捏造の事件であり、秋田立志会を壊滅するための弾圧事件であったことが明らかにされた。当時の薩長藩閥政府は自由民権運動の発展を恐れて、天皇の東北・北海道巡幸に合わせて秋田立志会内部に密偵と挑発者を送り込み、醍醐・阿気二つの強盗事件を実行してこれを秋田立志会の犯行に仕上げた。また警察権力を使って拷問と脅迫を繰り返し、『内覧予備』を捏造したというのが、秋田立志会事件の真相であった。」
『夜明けの謀略 ~自由民権運動と秋田立志会事件』(長沼 宗次著・西田書店)

 田ノ植集落のすぐ近く、吉田城跡の敷地内に「秋田の自由民権 発祥の地」と刻まれた石碑があります。なんと田ノ植は自由民権運動が生まれた場所だったとは。今度伺った際は、石碑もぜひみにいこうと思います。

 中編では、お嬢さんと社会科研究をされた柴田香織さんのこと、後編ではお嬢さんの研究発表についてご紹介します。

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【後編】:社会科研究発表のこと、母から娘へ伝統をつなぐ

~おまけ~ 阿気村強盗事件と天皇の巡幸

 余談ですが、秋田立志会事件の一つ、「阿気(あげ)村強盗事件」で被害に遭われた家の子孫の方と取材中偶然お会いしたことがあります。(別の場所の人形道祖神取材にて)「うちは歴史的な事件で強盗に入られたことがあるよ」とお聞きし、「えー!」とびっくりしました。

 また、取材では先述の「明治天皇の東北巡幸」という言葉をよく耳にします。「巡幸」とは天皇が各地を見回って歩くこと。明治天皇の「巡幸」には「徳川幕府は消えてなくなり、天皇を中心とした政治国家になった」と明治新政府が発するキャンペーンの側面がありました。秋田へは1881年(明治14年)9月11日に青森県から県北の大館へ入り、13日に能代市の鶴形、16日に秋田市へと県内を南下し、20日は横手市と湯沢市へ、22日に院内を通り山形県へ抜けていく日程で行われています。(※3)

 これまでに人形道祖神を祀る集落では、天皇巡幸の影響を少なからず受けてきました。例えば3メートルほどの大きな男女の神様「松原のニンニョサマ」(大館市)は「明治天皇が羽州街道をお通りになるということで、『街道から見えるところにこんなものがあってはいけない』と警察に注意を受けて移転(諸説あり)」(「村を守る不思議な神様2」より)されましたし、昭和天皇の巡幸では、天皇が来られるということで「集落の近くを通る道が急遽アスファルトで舗装され、立派な道路になった」というお話を伺ったこともあります。

 意外なところで人形道祖神と秋田の近代史とがつながることも、取材の醍醐味の一つです。

※1 参考:『明治10年代前半のインフレ下における国民生活~秋田事件の背景として~』(田口勝一郎著・法政大学史学会)
2 参考:『夜明けの謀略 ~自由民権運動と秋田立志会事件』(長沼 宗次著・西田書店)
3 参考:展示資料『平成29年度企画展 明治150年 ~秋田県の誕生~』(秋田県公文書館)

Writerこの記事を書いた人

投稿者:宮原 葉月
イラストレーター 宮原 葉月
広告・書籍・雑誌でイラストを描く。 「LOWELL Things」(ABAHOUSE)とのコラボバッグ、 シリーズ累計49万部「服を買うなら捨てなさい」(宝島社) 装画等を担当。 http://hacco.hacca.jp Twitter @hatsukimiyahara