ようやく長かった冬が終わり、心地よい日差しが感じられる季節になりました。春からは道祖神の行事が各地でスタート。取材が今から待ち遠しいです。
それに先立ち、ずっと気になっていた道祖神?をリサーチをすることになりました。それは新屋鹿嶋祭保存会のウェブサイト掲載の「新屋にあったカシマサマの考察」(石野弘・著)に登場する「お面」です。

この論考では、秋田市新屋愛宕町の地蔵堂に人形道祖神の頭部に被せられていたと思われる木製の面が保存されている。そして、明治5年、宣教師のJ.M.マランがこの地に来た時、町はずれに大きな藁人形が立っているのを見た、という記述があることに触れています。
秋田から一時間くらいの行程で、人口4000人ほどの新屋という町がある。日本中でも秋田ほど迷信にこっている地方はおそらくないだろう。この辺りではどこの町や村の入口にも伝染病を防ぐ守護神の印が見える。それは大抵、何かの木彫の怪物の首をつける藁の一束からなっている。我々が新屋を去る時、道路の右側にこのような偶像を見つけ、すぐ側にはキリスト教を邪宗門として禁じている公式の触書があった。(『宣教師の見た明治の頃 』キリシタン文化研究シリーズより)
『村を守る不思議な神様・永久保存版』(KADOKAWA)でも触れましたが、秋田県内で人形道祖神が分布しているのは内陸部。ナマハゲに代表される来訪神行事が残る沿岸部では見られず、もちろん秋田市内にもありません。神仏分離令により秋田県が「村はずれに藁人形を立てる」ことを禁じたのは明治6年(明治政府が消したかった古代信仰を参照)。宣教師・J.M.マランが来たのはその前年ということは禁制前。もしかすると、雄物川の水運を通じて横手盆地との関係が深い新屋にも、人形道祖神を祀る習慣があったのかもしれません。
3月12日、このブログでも度々登場する横手清陵学院高校2年生・多賀糸尊さんと一緒に取材にうかがいました。地蔵堂を管理されている愛宕町町内会の小野良治さんに鍵を開けてもらい、地蔵堂の中に掛けられているお面を拝観しました。



お面の大きさは53センチ×38センチ。大きさや形状から、高さ3~4メートル位の藁人形の道祖神に被せられていたとみて、ほぼ間違いないようです。秋田魁新報(1991年3月3日)の記事によれば、この面は昭和6年に地蔵堂を改装した際、天井裏から出てきました。小野さんによると現在、新屋の「鹿嶋祭」の際に登場する愛宕町の「カシマニンギョウ」にはこのお面が被せられるそう。この藁人形は今から15年程前に岩崎のカシマサマをモデルに作られるようになったのだとか。


明治5年、宣教師が見た新屋の人形道祖神のものと思われるお面はおそらく禁制後、この地蔵堂に隠されてきたと推測されます。それが約150年後の今、カシマニンギョウのお面として復活しているのは運命的。その雄姿を「鹿嶋祭」でぜひ拝観しなければ!と思いました。ご親切に案内していただいた小野良治さん、本当にありがとうございました!
この日はお昼を挟んで男鹿市へ向かいました。それは3月の彼岸の際に行われる「百万遍念仏供養」を調査するためです。春彼岸の行事は能代市鶴形のジンジョ焼きを取材したことがありましたが、男鹿市脇本にとても興味深い事例があるのです。
脇本百川では3月彼岸の中日に悪魔祓いと豊作祈願のヒャクマンベンをした。集落内から藁を集めて綱と男女の藁人形を作った。これを宿に置いて二重にして廻し合い、後に綱を分け、残りを村境に藁人形とともにぶら下げた。(『秋田民俗語彙辞典』、無明舎)
なんと「男女一対の藁人形」が登場する春彼岸行事がある!いずれ取材させていただけなければ、と思っておりました。そして、多賀糸さんは今でもこの行事が行われているという情報を事前に掴んでいました(スゴい!)。多賀糸さんの完璧な道案内でいざ男鹿半島へ!


ちょうど供養塔を観察していた時、高齢の男性が通りかかりました。「この行事について教えてください」と尋ねると、「来週やるよ!」という返答が。18日に藁で竜を作り、21日に念仏をされるとか。即座に「ぜひ取材させてください」とお願いしました。
百川の百万遍念仏供養、詳しくは次回のブログにて!