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斉内のオニョサマと伝説の男に会いにいく

投稿者:小松 和彦 投稿者:小松 和彦 小松 和彦

大仙市東部の斉内川流域は県内屈指の人形道祖神密集地帯。お面だけを祀っている集落が多い中、藁人形の道祖神も3カ所にいらっしゃいます。太田町下斉内のオニョサマ(仁王様)はその一つ。『村を守る不思議な神様・永久保存版』(KADOKAWA)では第6章「明治政府が消したかった古代信仰」に登場します。

下斉内では毎年GWにオニョサマを作り替えしてお祭りする「オニョサマ立て」が行われます。前回取材したのは2018年。その翌年のオニョサマフェスの際にもお邪魔しましたが、この度4年ぶりに行事の取材をさせていただきました。

「オニョサマ立て」は足の指を作る作業から

5月5日、朝8時からオニョサマの前に集落の皆さんが集まりました。4年前の参加者はすべて男性でしたが、今年はなんと総勢9名のうち、5名が女性。会長の小松賢誠さんによると、ここ数年で3名の男性が亡くなられたため、代わりにご婦人たちが参加するようになったとのこと。和気あいあいとした雰囲気の中、オニョサマ立てが始まりました。

注連縄は脚立2台を使って制作

今年作り替えするのは足の指と腰に巻く注連縄、そして手に持っている縄の数珠。ベテランの小松新一さん、本多重孝さんの指導の下、「講習会」のようなかたちで作業が進みます。外したパーツはなんと「スイカ畑に敷く」のだとか(宮原さんが喜びそう!)。オニョサマの体を飾る杉の葉を取り換え、10時半には完成。

本多さんが叩く鉦の音に合わせて数珠を回しながら念仏を唱える

「オニョサマ立て」のクライマックスは大きな数珠を回して念仏を唱える「百万遍」。この地域の道祖神の行事には欠かせない儀式です。男女混声による「なーんむあーんみだーぶつ(南無阿弥陀仏)」の声明がオニョサマの前で響き渡ります。

「この行事があるから集落に和ができる。廃れることが無いように続けていきたい」と賢誠さん。装い新たになったオニョサマは村の守り神として、今年も人々を見守ります。

ついに伝説の名人の子孫に会う

喜助が作ったと言われる上小曽野のお面

人形道祖神は村全体で作るものなので、制作者が有名になることは稀ですが、この地域では傑作の面を彫った二人の名人が知られています。高橋喜助、その弟子の高橋市蔵(円満造)です。江戸末期から明治にかけて活躍し、「仁王刻み」と称された喜助は、民間信仰であるオニョサマを「芸術の域にまで高めた」人物として、『村を守る不思議な神様2』、『村を守る不思議な神様・永久保存版』でも取り上げました。その人となりをもっと知りたいと思い、オニョサマ立ての後に喜助が住んでいた村を訪ねてみました。

幸運なことに子孫の方とお会いすることができました。ご当主の奥様に名刺を差し出したところ、以前どこかで『村を守る不思議な神様2』を手に取られ、喜助のことが書いてあるのをお読みになられたそうです。

現在17代目のご当主から家の過去帳を見せていただきました。「喜助」という名前はかつて代々襲名されていたようで、同じ名前が連なる中、間違いなく「仁王刻み」の戒名がありました。

好手彫像信士

これ以上ないくらいカッコいい「マスター・オブ・オニョサマ」の戒名!思わず体が震えました。

ご当主によれば先祖に彫刻の名人がいたことは子供の頃から聞いていたとのこと。しかし、制作した面に名前を書かなかったため、喜助が作ったという話は伝聞だけなのだそう。あえて作品として残そうとしなかったという部分に、その人柄を感じさせられます。喜助についてはまだまだ調べなければ、と思いました。

取材の後は、念願の食堂・二十番さんへ。こちらのご主人が修行したという浅舞の十九番さんは鹿島行事の取材の際に立ち寄ったことがありました。なにか喜助と円満造みたいだな、と思いながら、カツ丼をいただきました。

Writerこの記事を書いた人

投稿者:小松 和彦
郷土史研究 小松 和彦
工芸ギャラリー・小松クラフトスペース店主 『秋田県の遊廓跡を歩く』(カストリ出版)、 『新あきたよもやま』(秋田魁新聞デジタル版) などを執筆。 http://www.komatsucraft.com/ Twitter @Komatsucraft